「あのベテラン社員がいないと、この仕事は誰にも分からない…」そんな状況に、漠然とした不安を感じていませんか。「チームのノウハウをどうすれば共有できるのか」「マニュアルを作っても結局は形骸化してしまう」といった悩みは、多くの組織が抱える共通の課題ではないでしょうか。
個人の経験や勘に頼る方法は、一見すると効率的に思えるかもしれません。しかし、その知識を組織で共有する仕組み、つまり「ナレッジマネジメント」の視点がなければ、担当者が変わるたびにゼロからやり直しになったり、貴重なノウハウが失われたりするリスクを常に抱え続けることになります。
個人の「暗黙知」を組織で共有できる「形式知」へと変える、世界的に評価されたフレームワーク「SECIモデル」。その本質から、明日から使える身近な具体例、そして多くの人が陥りがちな失敗パターンとその対策まで、組織の知識を未来の資産に変えるための実践的な知恵を網羅的に解説します。
- SECIモデルは、個人の経験やコツ(暗黙知)を、組織で共有できるマニュアルやノウハウ(形式知)に変えるための実践的フレームワークです。
- まずは「共同化」から。週1回の雑談タイムや1on1で、ベテランの経験談を聞き出す「場」を意図的に作りましょう。
- 聞いた話は完璧でなくてOKです。「表出化」として、箇条書きや簡単な図で言語化し、チームに共有することから始めましょう。
- 失敗を避ける鍵は「スモールスタート」です。いきなり全社でやろうとせず、まずは自分のチームで小さな成功体験を積むことが重要です。
- SECIモデルは一回で終わらせず、サイクルを回し続けることで、チームが自律的に学習し成長する「文化」が育ちます。
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SECIモデルとは?組織の知識を資産に変えるフレームワーク
SECIモデル(セキモデル)とは、個人の持つ経験や勘といった暗黙的な知識を、組織全体で共有・活用できる形式的な知識へと変換し、新たな知識を創造していくプロセスを示したフレームワークです。
これは、ナレッジマネジメントの分野で世界的に知られる理論であり、業務の属人化を防ぎ、組織的なイノベーションを生み出すための土台となります。つまり、SECIモデルとは、個人の頭の中にある「見えない資産」を、組織全体の「見える資産」に変えるための設計図と言えるでしょう。
提唱者・野中郁次郎氏が示した知識創造理論
SECIモデルは、経営学者である一橋大学名誉教授の野中郁次郎(のなか いくじろう)氏によって提唱されました。野中氏の著書『知識創造企業』は世界中の経営者に影響を与え、日本企業が持つ強みの一つである「組織的な知識創造」のプロセスを理論化したものとして高く評価されています。
この知識創造理論としてのSECIモデルは、単なる情報共有にとどまらず、組織が環境の変化に適応し、持続的に成長していくための根幹をなす考え方です。
成功の鍵を握る「暗黙知」と「形式知」とは
SECIモデルを理解する上で欠かせないのが、「暗黙知」と「形式知」という2つの概念です。この2つの知識を相互に変換していくことが、SECIモデルの核心となります。
- 暗黙知(Tacit Knowledge)
個人の経験や勘、直感、身体的なスキルなど、言葉で説明するのが難しい知識のことです。例えば、ベテラン職人が持つ「製品の微妙な手触りの違いが分かる感覚」や、優秀な営業担当者の「顧客の心を掴む会話の間」などがこれにあたります。これらは属人化しやすく、本人でさえ言語化が困難な場合があります。 - 形式知(Explicit Knowledge)
言葉や文章、図、数式などで表現され、マニュアルや報告書のように誰にでも共有・伝達できる客観的な知識のことです。例えば、業務マニュアル、設計図、プログラミングのコードなどが形式知です。
多くの組織では、価値ある「暗黙知」が個人の内に留まってしまい、その人が異動や退職をすると失われてしまいます。SECIモデルは、この「暗黙知」を「形式知」に変え、さらに組織全体で活用していくための具体的なプロセスを示しています。
SECIモデルの4つのプロセスを身近な具体例でわかりやすく解説
SECIモデルは、以下の4つのプロセスが螺旋(スパイラル)状に繰り返されることで、組織の知識がより高度なものへと進化していくと考えられています。それぞれのプロセスを、身近な具体例を交えながらわかりやすく解説します。
1. 共同化(Socialization):経験や想いを共有する
共同化は、個人が持つ暗黙知を、他者との共同体験を通じて共有するプロセスです。言葉にならない経験や感覚を、同じ時間や空間を共にすることで伝えていきます。
これは、暗黙知から暗黙知への移転と言えます。
- 身近な例1(飲食店の新人教育)
新人の調理スタッフが、ベテランシェフの隣で調理の様子を見ながら、食材の切り方や火加減の「コツ」を肌で感じる。OJT(On-the-Job Training)が典型的な共同化の場です。 - 身近な例2(営業チームの雑談)
営業チームのメンバーが休憩時間に「昨日のお客さん、こんなことで喜んでくれてね」といった成功体験や失敗談を雑談の中で共有する。
2. 表出化(Externalization):暗黙知を言葉や図で表現する
表出化は、共同化によって共有された暗黙知を、言葉や図、モデルなどを用いて誰もが理解できる「形式知」へと変換するプロセスです。個人の頭の中にあったものが、初めて客観的な形になります。
これは、暗黙知から形式知への変換であり、SECIモデルの中でも特に重要なプロセスです。
- 身近な例1(飲食店のレシピ作成)
ベテランシェフが感覚で行っていた調理の火加減やタイミングを、「中火で3分」「焼き色がついたら裏返す」といった具体的な言葉にしてレシピマニュアルを作成する。 - 身近な例2(営業チームの成功事例共有会)
雑談で出た成功事例について、「どのような課題を持つ顧客に」「どのような提案を」「どのタイミングで行ったか」をフレームワークに沿って言語化し、議事録や報告書としてチームに共有する。
3. 連結化(Combination):形式知を組み合わせて体系化する
連結化は、表出化によって作られた形式知と、既存の形式知を組み合わせ、新たな知識体系を創造するプロセスです。断片的な知識が、より大きな「仕組み」や「システム」へと統合されます。
これは、形式知と形式知の組み合わせです。
- 身近な例1(飲食店の新メニュー開発)
複数のレシピマニュアルと、顧客アンケートのデータ、売上データを分析し、新たな看板メニューのレシピとオペレーション手順を開発する。 - 身近な例2(営業チームの営業戦略立案)
複数の営業担当者の成功事例報告書と、市場の動向データを組み合わせ、新たな顧客層に対する標準的な営業トークスクリプトや提案書テンプレートを作成する。
4. 内面化(Internalization):体系化された知識を実践で体得する
内面化は、連結化によって体系化された形式知を、個人が実践を通じて自分のものとし、新たな暗黙知として体得するプロセスです。マニュアルを読むだけでなく、実際にやってみることで知識が血肉となります。
これは、形式知から暗黙知への変換であり、次の「共同化」へのスタート地点となります。
- 身近な例1(飲食店の調理トレーニング)
新メニューのマニュアルを読み込んだスタッフが、実際に何度も調理を繰り返し練習することで、マニュアルを見なくてもスムーズに、かつ美味しく作れるようになる。 - 身近な例2(営業チームのロールプレイング)
新しく作られた営業トークスクリプトを使って、チーム内で顧客役と営業役に分かれてロールプレイングを繰り返し行い、自分なりの応用の仕方を身につける。
このように、SECIモデルは「共同化→表出化→連結化→内面化」というサイクルを回し続けることで、個人の経験が組織の知識となり、さらにその知識を元に個人が成長するという、持続的な成長スパイラルを生み出します。
なぜ今SECIモデルがナレッジマネジメントで重要なのか?導入する3つのメリット
変化の激しい現代において、SECIモデルを意識したナレッジマネジメントは、組織にとって不可欠な経営戦略となりつつあります。SECIモデルを導入することで、具体的に以下の3つの大きなメリットが期待できます。
1. 業務の属人化を防ぎ、組織全体のレベルを底上げする
最大のメリットは、業務の属人化を解消できることです。「あの人がいないと仕事が進まない」「ベテランが辞めたらノウハウが失われる」といったリスクは、多くの組織が抱える時限爆弾です。
SECIモデルのプロセスを通じて、個人の頭の中にしかない暗黙知をマニュアルや手順書といった形式知に変換することで、誰もが一定水準以上の業務を遂行できるようになります。これにより、特定の人材への依存から脱却し、組織全体の業務品質を安定させ、底上げすることができます。
2. 新しいアイデアが生まれやすい組織風土を醸成する
SECIモデルは、単なるノウハウ共有の仕組みではありません。特に「連結化」のプロセスでは、異なる部署や個人の持つ知識(形式知)が組み合わさることで、これまで誰も思いつかなかったような新しいアイデアやイノベーションが生まれるきっかけとなります。
例えば、営業部門の顧客データと開発部門の技術知識が結びつくことで、画期的な新商品が生まれるかもしれません。知識の共有と組み合わせが活発に行われる組織は、変化に強く、創造的な風土が育ちます。
3. 組織的な学習が促進され、継続的な成長につながる
SECIモデルのサイクルを回し続けることは、組織が自ら学び、成長し続ける「学習する組織」になることを意味します。個人の成功や失敗が、その人だけの経験で終わるのではなく、組織全体の共有財産として蓄積され、次の成功へと繋がっていきます。
このような組織では、メンバーは常に新しい知識を吸収し(内面化)、それを他者と共有し(共同化)、さらに良い方法を模索する(表出化・連結化)ようになります。結果として、場当たり的な対応ではなく、持続可能な組織成長の仕組みが構築されるのです。
SECIモデルを実践する上で不可欠な「場(Ba)」の考え方
SECIモデルの4つのプロセスを円滑に進めるためには、それぞれの知識創造活動を支える「場(Ba)」の存在が不可欠であると、提唱者の野中氏は述べています。
「場」とは、単なる物理的な場所に限りません。会議室のような物理的な空間だけでなく、オンライン上の仮想空間、あるいは共通の目的意識や価値観といった心理的な繋がりも含まれます。SECIモデルを実践するには、この「場」を意図的にデザインすることが重要です。
4つのプロセスに対応する「4つの場」とは
SECIモデルの各プロセスには、それぞれ適した「場」が存在します。
- 創出の場(Originating Ba)
「共同化」を促進する場です。フェイス・トゥ・フェイスの対話が重要で、雑談や飲み会、休憩スペースでの立ち話などが該当します。感情や経験をオープンに共有できる、リラックスした雰囲気が求められます。 - 対話の場(Interacting Ba)
「表出化」を促進する場です。他者との対話を通じて、自分の考えを客観視し、言語化していく場です。ブレインストーミングを行う会議や、1on1ミーティングなどがこれにあたります。 - 体系化の場(Cyber Ba)
「連結化」を促進する場です。オンライン上のデータベースやグループウェアなど、仮想空間でのコミュニケーションが中心となります。個人の知識を組織全体で効率的に組み合わせ、体系化するのに適しています。 - 実践の場(Exercising Ba)
「内面化」を促進する場です。OJTや日々の業務の中での実践、研修などが該当します。体系化された形式知を、実際の行動を通じて身体で覚えていく場です。
リモートワーク環境で「場」をどう作るか
リモートワークが普及した現代において、特に「創出の場(共同化)」をどう確保するかが課題となっています。オフィスでの偶然の立ち話がなくなった分、意図的に「場」を作る工夫が必要です。
- オンラインでの雑談タイムを設ける
週に1回、業務とは関係ないテーマで話す「バーチャル雑談会」を定例化する。 - 共同編集ツールを活用する
オンラインホワイトボードツール(Miroなど)やドキュメント共有ツール(Google Docs, Notionなど)を使い、リアルタイムで複数人が意見を出し合いながらアイデアを形にしていく(対話の場・体系化の場)。 - チャットツールに雑談用チャンネルを作る
SlackやTeamsなどに、趣味や日々の気づきを気軽に投稿できるチャンネルを作り、偶発的なコミュニケーションを促す。
働き方が変わっても、「場」の本質を理解し、工夫次第でSECIモデルを回していくことは十分に可能です。
SECIモデル、特に最初のステップである「共同化」と「表出化」を活性化させるためには、「心理的安全性」が欠かせません。
心理的安全性とは、「このチームでは、自分の意見や素朴な疑問を口にしても、誰も馬鹿にしたり罰したりしない」とメンバーが信じられる状態のことです。
「こんな初歩的なことを聞いたら無能だと思われるかも」「この失敗談を話したら評価が下がるかもしれない」といった不安があると、メンバーは口を閉ざしてしまい、貴重な暗黙知が共有されることはありません。
リーダーは、メンバーの発言を傾聴し、たとえそれが未熟なアイデアや失敗談であっても、まずは受け止める姿勢を示すことが重要です。心理的安全性が確保された「場」があって初めて、SECIモデルは健全に機能し始めるのです。
SECIモデル導入で陥りがちな失敗パターンと対策
SECIモデルは強力なフレームワークですが、その運用を誤ると形骸化してしまいます。ここでは、多くの組織が陥りがちな3つの失敗パターンと、それを回避するための対策を解説します。
失敗1:「共同化」の時間を無駄な雑談だと軽視してしまう
「業務時間中に雑談なんて非効率だ」と考え、共同化のプロセスを軽視してしまうのは典型的な失敗です。業務効率を追求するあまり、メンバー間の偶発的なコミュニケーションが失われ、新たな知識創造の芽が摘まれてしまいます。
【対策】目的意識を持った「雑談の場」を設計する
雑談を単なる無駄話で終わらせないために、意図的に場を設計しましょう。例えば、「週に一度、30分間『最近のヒヤリハット事例』について話す会」を設けたり、「プロジェクトのキックオフで、各自の仕事に対する『想い』を語る時間」を取ったりするなど、テーマと目的を定めることで、雑談は価値ある「共同化」の場に変わります。
失敗2:マニュアル作成(表出化)が目的になってしまう
「とにかくマニュアルを作れ」という号令のもと、大量の文書が作成されたものの、誰も読まずにサーバーの肥やしになっている…というのもよくある失敗です。表出化はSECIモデルの一部分に過ぎず、それ自体がゴールではありません。
【対策】その後の「連結化」「内面化」までセットで考える
マニュアルを作成する際には、必ず「誰が、いつ、どのように使うのか」という内面化のプロセスまでを具体的に設計しましょう。例えば、「作成したマニュアルを使って新人がトレーニングを行い、1ヶ月後に改善点をフィードバックする」といった仕組みを組み込むことで、マニュアルは「使われる」生きた知識になります。
失敗3:プロセスを一度回して満足してしまう
一大プロジェクトとしてSECIモデルに取り組み、一度サイクルを回して満足し、その後は何も行われなくなるケースです。SECIモデルの真価は、一度きりのイベントではなく、継続的にスパイラルを回し続けることで発揮されます。
【対策】文化として根付かせるための「スモールスタート」を意識する
最初から全社で完璧な仕組みを目指すのではなく、まずは特定のチームで小さなサイクルを回してみる「スモールスタート」が有効です。小さな成功体験を積み重ね、その効果を周囲に示すことで、徐々に組織全体の文化として定着させていくことを目指しましょう。SECIモデルは、終わりのない継続的な改善活動なのです。
まとめ:SECIモデルを組織の成長エンジンにしよう
この記事では、SECIモデルの基本的な考え方から、4つのプロセス、導入のメリット、そして実践における注意点までを解説しました。
SECIモデルは、単なる小難しい理論ではありません。それは、ベテランの貴重な経験を組織の資産に変え、業務の属人化という深刻なリスクから会社を守り、さらには新しいアイデアが次々と生まれる創造的な組織風土を育むための、極めて実践的な「成長エンジン」です。
最初から完璧を目指す必要はありません。まずはあなたのチームで、週に一度15分だけ、仕事に関する雑談をする「共同化」の場を設けることから始めてみてはいかがでしょうか。その小さな一歩が、組織の未来を大きく変えるきっかけになるはずです。